弥生の塩か
この村には、昔々8人が住みついて塩焼きを生業とし、村を開いたとの言い伝えがある。その発祥譚と符合するように塩竈神社があり、塩土老翁が祀られている。
昭和43年に地元の中学生が発見した寺越洞窟遺跡は弥生後期のもので、壷や甕形土器、貝輪とともに成人女性2体の人骨が出てきたところから洞窟葬の埋葬遺跡とみられ、対馬では極めて珍しい墳墓遺跡として知られている。またこの近辺では古墳時代の遺跡も多く、伝説の8人とそれらの遺物がどの程度関係があるかは知る由もないが、やはり彼らのものであればと思いたくなる。
雷浦に鯨組
1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には芦ヶ浦は10余戸と記されている。その頃はあまり目立つような浦ではなかったようだが、江戸時代後期、1832年(天保3年)に芦ヶ浦(正確には雷浦)に鯨組の納屋が置かれると、村はにわかに騒々しくなったようだ。
対馬の鯨組でもっとも成功したのが、後に「鯨亀谷」ともよばれる亀谷卯右衛門経営の鯨組だ。彼は3ヵ所に鯨納屋を置き、春に西海岸沿岸を北上する鯨を捕り、秋に島の東を南下する鯨を狙った。芦ヶ浦には秋納屋が置かれた。
1847年11月から翌年2月まで赴任した芦ヶ浦鯨奉行の『鯨日記』によると、その期間中にこの浦の沖で発見できた鯨は合計30頭。捕獲できたのは6頭。3ヵ所合わせて40頭を捕っていた最盛期に比べると少ないようだ。
鯨組の衰退
この翌年の1848年にはアメリカの捕鯨船がオホーツク海、ベーリング海で操業をはじめ、日本近海にも姿を見せるようになる。近代捕鯨の始まりだ。鯨の乱獲が進み、対馬近海には鯨が来なくなった。そして、その船団への燃料、食料、飲料水の補給地を求め、1853年にはペリーが黒船に乗ってやってきた。
雷浦には鯨組墓がある。そして、地福寺の境内には鯨組の供養碑が建ち、彼岸には村の人によって供養が続けられているという。
半分は移住者
1964年(昭和39年)の資料で本戸17戸、分家7戸、寄留28戸となっているが、寄留と呼ばれる移住してきた人たちと、前からの村人がほぼ半々という村は意外に少ない。
1952年(昭和27年)に淡路島から漁民団が移住。約30隻、80人。NHK大阪が移住状況を放送した。彼らはその後どうなったのだろうか。イカ釣り専業者が多いと『美津島町誌』(1978年出版)には書かれているが、現在はどうだろうか。
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