海の豪族の拠点か
島の北端部にあり、韓国との通行には有利な位置にある。「豊」という地名から、山口県豊浦郡と、かつて「豊の国」と呼ばれた北九州とを関連付け、古代に朝鮮半島と北九州、本州西端部に囲まれた海域で活動した豪族の拠点のひとつとする説もある。湾の東岸には弥生から古墳時代にかけての石棺群の跡。弥生式土器のほかに韓国系の金海式土器も発掘されており、その説の根拠となっている。
この村は、対馬では珍しく広い耕地を有する農村的色彩の強い村だが、そのほとんどは江戸時代後期の大干拓によるものだという。なるほど、土地がないから富を外に求める。その交易力こそがこの村のベースをつくってきた。
豊と対馬島主
室町時代の中ごろ(1440年頃)に豊崎郡が設けられ、豊が郡府となった。その初代郡主は第8代島主・宗貞盛の弟、宗盛国。その後、第9代島主に嫡子がなかったので、第10代は盛国の子・貞国がなった。貞国は1484年(文明18年)に、78年間続いた佐賀島府を廃して、現在の厳原(当時の国府)に屋形を移すなど、大胆な改革を行い、その後の島政の基礎をつくった。
さらに貞国のあと、11代、12代、13代と、彼の子、孫、曾孫が島主をつなぐが、そこで家系が絶え、今度は豊崎郡主を継いだ貞国の兄・宗盛俊の孫である将盛が第14代島主に。しかし、彼の治世は乱れ、ついには1539年(天文8年)に家臣によって故郷である豊へ送り帰されてしまう羽目に。将盛はこの地に屋形をつくり、そこで4男3女をもうける。そして結局は、豊で育った将盛の子供たちが17代、18代、19代を務め、現在に続く宗氏の主流となるに至っている。
個数激減の謎
1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には豊は家数40余戸と記されている。もちろんこれは正確な数字ではないが、その頃の対馬では中規模の村だったようだ。16世紀後半(天正の頃)には51戸。1717年(享保2年)には66戸に達するが、その2 9年後の延享3年には43戸と激減している。別家隠居を減らすという藩の方針による戸数減少もあるが、別の理由もあるようだ。
朝鮮との交易によって藩の財政を築いてきた対馬藩は、当然のように密貿易を禁止した。密貿易者は「潜商」と呼ばれ、見つかると死罪や奴婢の刑に処せられた。豊では百姓の潜商14戸がつぶれ40人程減ったという。さらに慢性の食料不足に苦しんでいる島ゆえ、人口の増加は避けなければならず、島外からの居住を抑制した。1706年(宝永3年)に藩は旅人吟味役を設け、他国者を次々と送還していったが、潜商および他国者の取締りが厳しくなると逃亡者が増え、それが豊の人口を減らす一因になったとも考えられている。
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