対馬全カタログ
            
 
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【地名の由来】本文参照。

【名所等】

竹敷の浦から霊峰白嶽を望む

竹 敷 【 たけしき 】

 

万葉集と、旧海軍と、
海上自衛隊の村。

『万葉集』の中の竹敷
 防人(さきもり)の島として知られ、『万葉集』でも防人の歌で登場する対馬だが、実際に防人が詠ったのは4首のみ。対馬で詠まれた歌の多くは736年(天平8年)の遣新羅使阿倍継麻呂一行によるもので21首あり、その内の18首が竹敷ノ浦で詠まれたとされている。

竹敷の黄葉をみれば吾妹子が
待たむといひし時ぞ来にける

竹敷のうへかた山は紅の
八入の色になりにけるかも

竹敷の玉藻なびかしこぎ出なむ
君が御船をいつとか待たむ

 最後の歌は玉槻(たまつき)と呼ばれる娘の歌。この時代の対馬に歌を詠むほどの教養ある子女がいたかどうか。対馬に流れてきた遊女説、海女になりかわっての代作説など、歴史家にロマンを提供している。




由緒ある地名の謎
 『万葉集』に登場することからその存在を歴史に刻むことになった竹敷だが、万葉仮名では「多可思吉」あるいは「多可之岐」と書かれており、音としては「たかしき」。その「たかしき」が竹敷となったのは、江戸時代に「竹の浦」という村を、これがかつての「たかしき」に違いないと、対馬一番の賢人として知られる陶山訥庵が比定し、竹敷と書いて「たかしき」とルビを打ったことに由来する。
 つまり、「たかしき」という音に近い地名が付近にないことから、竹の浦が「たかしき」であろうということになり、地名も両者の折衷で「竹敷」を当て、それが定着し、音は漢字にそろえられ「たけしき」となった。

日本海海戦大勝利のお膳立て
 かつて遣新羅使が滞在したとされる竹敷が、再度日本史に登場したのは明治時代になってから。1894年から95年に至る日清戦争以後の朝鮮半島の緊迫した情勢をにらみ、旧海軍は艦船の速やかな移動のために、対馬の地峡部を開削し水路をつくるプロジェクトを立ち上げた。そのために1896年(明治29年)に竹敷に海軍要港部を置き、のちに「万関の瀬戸」と呼ばれる水路の開削に取りかかった。そして、それが日露戦争の日本海海戦、別名対馬沖海戦(世界では「対馬沖」を採用している)における大勝利の要因のひとつになったのだった。
 第二次大戦後は海上自衛隊の対馬基地分遣隊が置かれ、現在にいたっている。

最初の対馬空港は水陸空港
竹敷に1963年(昭和38年)に完成した対馬空港は、長さ150m、幅20mの滑走水路やエプロン、ターミナルビルを配した水陸空港だった。離島振興事業として、現在の対馬空港が開港するまでの一時期(昭和39年から41年まで)、長崎県大村空港との間を水陸両用機が往復したが、機体の故障等が原因で運休が多く、1968年(昭和43年)の閣議で廃止が決定された。1975年(昭和50年)10月の新対馬空港オープンまで、対馬と本土を結ぶ空の便は途絶えることになった。


海上自衛隊の施設
神功伝説が残る八幡神社