3000年の時を超えて
1948年(昭和23年)に高床式の小屋の床下から、志多留貝塚(縄文後期)が発見された。これが対馬で最初に発見された貝塚であり、3000年前の縄文層からは黒曜石の鏃や骨で作った狩猟具、弥生層からは対馬で唯一の石包丁が出土している。この発見はここで稲作が普及していた可能性を強く示唆している。
また大将軍山古墳は、4世紀の高塚古墳で陶質土器、土師器、玉類が出土。この時期の高塚古墳は対馬では2ヵ所だけ。かなり身分が高く力のあった首長の墓らしく、村の一角には遥拝用の石碑も立っており、かつて対馬の上島を治めたと推定される「上県直(かみあがたのあたい)」のものではないかとも言われている。
また、大将軍山の麓には、千人塚と呼ばれる古墳時代後期の積石塚古墳もある。さらに志多留では溶鉱炉の跡らしいものが発見されており、対馬墳墓の埋葬品として特徴的な青銅平矛を鋳造した可能性が高いといわれている。
対馬の稲作発祥の地
かつては「小伊奈」とも呼ばれたところから、伊奈の枝村のように扱われたこともあるようだが、村の発生は伊奈よりも古いとされており、その証左として遺跡の多さが挙げられている。
伝説にある鶴が稲穂を落とした地は伊奈かも知れないが、その穂から米をつくったのは志多留の田であり、そこは神田とされ、特別に「榎田」と呼ばれている。おそらくそれから2000年近く、ここは対馬では珍しく稲作が盛んな村だったが、残念なことに農業の後継者が育たず、現在ほとんどの田は休耕地となっている。神田である「榎田」も同様の状態だ。
信仰心篤き村
文永の役で伊奈湾を襲った蒙古軍に抗して志多留の人々も戦った。蒙古塚にはその戦死者を、殿様塚には戦死した副将軍をまつっていると言われているが、副将軍が誰かは不明。山頂付近の山肌を石で葺き、中央部は一段高く石積みがなされているカナグラダンと呼ばれる祭祀遺跡もあり、周辺の森は禁忌が厳しく女人禁制でもあった。
またこの村は、宗教的風習が根強く残っているようで、旧暦6月初午の日に行われるヤクマ祭りもまだ続いているらしい。
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