対馬全カタログ
            
 
リンク

【地名の由来】かつて地名誕生の頃、仁田湾がこの村まで湾入していたとするか否かで2説ある。つまり「瀬」が海の瀬か、川の瀬かという違い。「海の瀬」とする説は、川が運んできた砂や泥が堆積した地に田を開いたことが由来とする。「川の瀬」説は、水が澱んで生まれた湿地(ヌタ)を地名の由来とする下流の村「仁田」と対比させ、「瀬田」は川の浅瀬を利用してつくった田、あるいは水に流される荒地を意味するとして、それを由来とする。

【名所等】
国本神社:仁田の氏神でもある。明治時代の廃仏毀釈以前は、ここに観音堂があった。

目保呂ダム:本文参照。

瀬 田 【 せ た 】

 

洪水は終わり、厄馬はつづく。
それがこの村の21世紀。

洪水の名所、仁田
 瀬田を中心とする仁田地区は、対馬の川では1位、2位の長さを誇る飼所川と仁田川の出合を中心に広がっている。急流かつ水量の多い2本の川が合流するとなると、避けがたいのが洪水。対馬が豪雨に見舞われると、ここの川は当たり前のように氾濫した。おそらく何千年も何万年も前から。そして氾濫を繰り返しながら、山の土で平地をつくっていった。
 この付近は金幕遺跡や細矛銅剣が発見された亀のサエ遺跡など、弥生時代の遺跡も多く、また仁田の観音堂には対馬六観音のひとつである聖観音が置かれた。古代、中世、近世を通して栄えた村だが、毎年決まったようにやってくる洪水を、村人はどのように受け止めたのだろうか。
 ただ、洪水の村にも雨乞いはあった。日照りが続き作物に影響がではじめる頃には、仁田川の虎頭渕で郡奉行が代々保管している虎の頭を沈めて雨乞いを行ったという。

念願の治山治水
 1700年(元禄13年)に対馬藩が仁田川の川役(川奉行ともいう)を設けたことが記録に残っているが、その後の記録はない。1857年(安政4年)には、蛇行する本流にバイパスを設けるべく、越ノ坂(こえんさか)の堀切工事が行われた。仁田川は飼所川と合流してすぐに大きくS字に蛇行し仁田湾に注ぐ。大雨になると合流地点で急激に増加する水量を十分に排水できず洪水となる。そこで本流以外に直線の水路を設けたのだが、安政の堀切は水路が小さ過ぎた。本来の目的は沼地を水田にするためだったが達成されなかったようだ。
 越ノ坂の堀切が拡張されたのは1918年(大正7年)。これも治水が目的というよりも、材木の運搬のためという経済的な目的がメインだった。
 1979年(昭和54年)には飼所川の上流に仁田ダムが建設され、2001年(平成13年)には仁田川上流に目保呂ダムが完成。その工事と同時進行で越ノ坂の堀切拡張工事が行われ、これは現在も続けられている。これによって、おそらく何千年も続いた仁田の洪水に終止符が打たれる。

仁田の厄馬
 「洪水」の次に仁田で有名なものといえば「仁田の厄馬(ヤクマ)」だ。そして仁田の厄馬といえば競馬(地元では「馬飛ばし」という)で、競馬は瀬田で行われた。

 ヤクマの日(旧暦6月初午の日)にはまず厄馬神にお参りして、競馬を行い、子供相撲を行った。競馬といっても2歳馬、3歳馬だけで、しかも牡馬だけ。相撲も2歳児と3歳児で、しかも長男だけだった。現在は子供が少なくなったので、次男三男でも女子でもよくなったが、3歳児が2歳児に負けてやるという約束事は受け継がれている。子供の壮健を願ってのことで、ここ瀬田では厄馬が子供の祝いを兼ねており、5月5日(子供の日)にお祝いはしないし、鯉のぼりも立てない。かつて鯉のぼりを立て、長男が亡くなった家があり、それ以後誰も立てなくなったという。
 隣の樫滝で行われていた競馬が瀬田に移ったのは明治時代からで、喧嘩が名物と言われるほどの激しい競馬が、1960年(昭和35年)くらいまで続いたそうだ。その頃、馬の仕事は車と耕運機に取って代わられ、優秀な農耕馬だった対馬馬だが頭数も次第に減っていった。

再開された競馬と目保呂ダム
 2002年(平成14年)に約40年ぶりに競馬が行われた。目保呂ダム完成1周年を記念し、目保呂ダムの河川敷が馬場になった。第1回目は対馬馬だけでなく、本土からサラブレッドを呼んでの競馬となったが、これからも対馬馬の繁殖を願い、続けていくとのことだ。
 目保呂ダムは対馬最大のダムであり長崎県でも2番目の規模を誇る。平成13年3月に完成し、年に2,3回は起こるといわれる仁田の洪水を防止する決定打として、多くの人が期待を寄せている。また河川敷の一部は公園となり、さらに整備が進められている。

15年間だけの村
 その目保呂ダムのさらに上流に、約80年前、約15年間だけだが村があった。大正の初め頃から国有林開拓の目的で移住してきた人々の村で、谷川沿いに散り散りに住み、合わせると約40軒にもなった。瀬田から村の入口まで約15km。そこには日用品の店もあり、分教所もつくられた。
 伐採、苗木育て、植樹、林道づくり、製炭など、山の主要な仕事を担ったのは当時「豊後の山師」と呼ばれた人々だ。大分県の林業従事者の次男三男が多く、家族全員で仕事に当たった。冬の寒さをしのぐために、入山した朝鮮の人の家をまねて、床下にはオンドルもつくった。そんな村が目保呂村だ。
 開拓が終わる大正末期から昭和初期にかけて、多くの人が故郷に帰ったが、対馬に残る人もあったという。また、彼らの優れた椎茸栽培技術が、後の対馬の椎茸生産に貢献していると言う人も多い。

田植え直後の瀬田
国本神社
工事が続く堀切(樫滝)
目保呂ダム