対馬全カタログ
            
 
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【地名の由来】小船越に比べ、越える丘が小さいので、大きな船を引いて越すことができたところから。

【名所】
松村安五郎の碑:本文参照。

吉野数之助の碑:本文参照。

松村安五郎「忠勇」の碑

大船越【おおふなこし 】

 
江戸初期に完成した水路が、
この村を変えた。

島を二分した水路
 1471年に朝鮮で出された『海東諸国紀』には戸数100戸と記載されている大船越。弥生時代には既にあった村と言われているが、中世までは小船越に比べ歴史に登場する機会は少なかった。それが変わったのは、1672年(寛文12年)に、瀬戸を掘り切り、水路を完成させてからのこと。この工事によって島は初めて分離された。島内交通にとっても便利であるが、朝鮮へ往来する船もここを通るので、藩は密貿易などを取り締まるため「口留番所小船改」をいう番所を置き、通交する船を監視させた。

大船越事件
 1861年(文久元年)2月に浅海湾に侵入したロシア船ボサドニックは船の修理を理由に逗留。藩の退去命令を無視して、昼ヶ浦の芋崎に錨を下ろし小屋を建て、約半年間居座った。その間の4月13日、大船越の瀬戸をロシア船ボートが番士の制止を無視して強行突破しようとした。それを見た松村安五郎は阻止しようと薪を投げたが、逆に相手の銃で撃たれた。また番士の吉野数之助はロシア側に捕らえられ舌を噛んで息絶えた。この二人を讃える碑が瀬戸の南側にある。

吉野数之助「義烈」の碑