対馬全カタログ
            
 
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【地名の由来】本土からの船が朝鮮に渡る際に、西風になると進めず、風待ちのためにこの港の停泊するところから、西風の泊りで、西泊。

【名所等】
三宇田海岸:本文参照。
農理刀(のりと)神社:旧称は氏神熊野権現。明治初期の神社再編で、昔の記録(延喜式神名帳)にある農理刀神社と定められた。
西福寺:1326年に中国の杭州普寧寺で刷られた大般若経600巻が保存されており、寺の創建の古さを伝えている。
国民宿舎「上対馬荘」:1980年(昭和55年)に開業。収容人数100人。
殿崎戦勝記念碑:日本海海戦で撃沈されたロシア艦の兵士が投降した所として、記念碑が建っている。碑文「恩海義?」は海軍大将東郷平八郎の親筆。
殿崎:岬の先端部にある自然の洞窟には花崗岩の観音が祀られている。

西 泊 【 にしどまり 】

 

長くこの地方の雄として
経済と文化の中心だった。

交易の中継地として
 西泊という地名が示すように、この村は古くから朝鮮と九州あるいは本州を往来する船の寄港地(泊)であり、その恩恵で村の歴史をつくってきたようだ。
 現在は隣り村の古里の遺跡として扱われている弥生時代の石棺群「塔ノ首遺跡」だが、塔ノ首から東は本来は西泊の土地。この遺跡も西泊に拠を置いた豪族の墳墓と見られており、かつては西泊がこの地域の中心であった根拠ともなっている。

中世の繁栄
 西泊がはじめて文献に登場するのは1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』であり、そこには戸数100余戸と紹介されている。これをこの書物ならではの大雑把な数字と捉えるか、ほぼ実数通りと受け取るか。ほぼ実数という説には、次のような解釈もある。
 15世紀初めの記録で西泊には製塩のための塩釜があったことがわかっている。塩釜は多くの燃料や、伐子(きりこ=木を伐って薪をつくる人夫)や人足などの人手が必要であり、その塩釜の施設や切子納屋が人家に見え、100余戸となったのではないかと『上対馬町誌』にある。
 その5年後(1476年)に西泊に滞在した朝鮮使節の報告書によると、西泊の人居は50余戸となっている。それでもやはりこの時代としては多く、官船が寄港するほど、重要な港であったことがわかる。

したたかな村
 古より交易を業としたためか、歴史に登場する西泊はなかなかしたたかな村という印象がある。
 藩のお墨付きとなる公事免許(今風に言うとライセンス)もその一つで、この村には、船の売り買い、人の売り買い、塩の売買をはじめ多くの公事免許状が発行された。
 また、対馬で初めて漁場を貸して浜料を得た村であり、1805年(文化2年)に秋鰯小魚取網を、翌1806年(文化3年)には大敷網を村中で請浦し、その漁業権を貸して旅漁師に経営をさせている。また、同じ湾内の3村が浜料の分配を求めたが、それを退けた。
 明治以降も漁業の基地として発展し、明治40年代からは近代捕鯨の基地として、戦後はイカ釣漁で栄えたが、1908年(明治41年)に比田勝に役場ができて以来、徐々に繁栄の中心が比田勝に移っていった。


廃村となった三宇田村のこと
 1996年(平成8年)に「日本の渚百選」に選ばれ、白い砂と青い海のコントラストが美しい三宇田海岸。今は対馬屈指の海水浴場&キャンプ場として韓国からも観光客を訪れようになったが、1703年(元禄16年)の郷村帳にはそこに独立した村があったことが記されている。その後、三宇田村は疲弊し、脱村者も出るなど、村の体を成さず、享保年間の初め頃に西泊に吸収されてしまった。
 三宇田海岸には、「花宮御前」という祠があり、ウツロ舟(漂流船)に乗って流れてきた姫君が、財宝を盗まれ殺されたという伝説がある。


西泊港
網干し風景
三宇田海岸