営みが消えた謎
水崎は、東加藤、西加藤、加志々の3部落をまとめた村名。遺跡の発見により、縄文時代、弥生時代にここに人々の営みがあったことがわかっているが、中世から近世にかけては無人だったという。その理由はわかっていない。江戸時代後期には廻の鯨組に加わった呼子(現佐賀県呼子)の海士たちが一時定住していたが、明治の初めには1戸もなかったという。
島外漁民が再興
現在の水崎は、明治30年前後から移住してきた、広島県長浜の漁民を中心とした村。彼らはタイの一本釣りを得意としたが、タイは漁期も長く、夏にイカ釣りを行えば年間通して稼ぐことができるということで定住した。また、江戸時代後期から真珠を求めて浅海湾に入っていた大村藩(現長崎県)の海士が、明治の終わり頃にここに小屋をつくり定住していたと言われている。ほとんどの家が他所から移住してきた寄留の部落であったが、ここでは土地所有が認められた。
加藤海底遺跡が伝えたもの
昭和43年に加藤小学校の前の浜で児童たちが多数の石器を採集した。造船場建設のために海底が掘り起こされたことが幸いし、古代の営みの跡は3000年の眠りから覚めることになった。そこからは、縄文中期の層から、瀬戸内の船元式土器や朝鮮系の櫛目文土器が出土し、かの時代においても広く交流、交易が行われていたことを伝えた。対馬、日本において、貴重な発見となった。
なおこの付近では箱型石棺など弥生時代の遺跡も発見されている。 |
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