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【地名の由来】かつて峰郷の中の大きな村であったのが由来か。かつては「峰」と書かれたことも。また郷名の「峰」は、郷内にある三つ峰をもつ霊峰を由来とし、かつては「三峯」と書かれたこともあった。 |
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弥生の海は谷の奥深くまで至り、 |
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変わらないのは清流だけか 日本一美しい清流といわれる三根川(1)は全長6km。高野山を源流に狭い谷を流れ落ち、蛇行し、三根湾に至る。下流部は潮の干満で大きく水位を変えるが、かつてはそこが海だったからだ。干拓によって田畑を、あるいは宅地を拡大しながら、峰郡、峰郷、峰村、峰町と、対馬では唯一昔からの地名と地域を維持してきた行政区「峰」の中心であり続けた。 また、1441年(嘉吉元年)九州から撤退してきた少弐氏は三根中村(現在の中里)に迎えられ、「三根公方」と呼ばれてそこを拠点としたが、1497年(明応6年)の筑前の戦いに破れ、名家少弐氏は亡んだ。 弥生時代は対馬の中心 弥生時代中期から後期にかけて墳墓遺跡が多く、ここが当時の対馬の中心地だったと言われる。その頃を想像するには、現在の田や住宅地のほとんどを海と考えればいい。 ガヤノキ遺跡は石棺墳墓数が多く、出土品からみてその中のひとつが弥生時代の対馬の首長の墓と推定されている。そこから川の対岸にある高松壇遺跡、200mほど上流にある坂堂遺跡、さらにその対岸には井出遺跡。これらはすべて、かつては入り江に突き出た岬に設けられた。また、平成5年に発見され現在も調査中の山辺遺跡は井手遺跡から少し上流の丘の上にあり、対馬では珍しい住居跡遺跡。対馬弥生民の生活解明の手掛かりとして期待されている。 六観音参りと汽船 三根は長く上島西海岸の交通の要衝であった。対馬六観音のひとつ十一面観音を祭った観音堂もあり、江戸から明治にかけて六観音参りで島民の往来は盛んだったようだ。さらに峰郷の中心でもあったので、最低限の道路網は整備されていた。 また、戦後、昭和40年頃まで、1日1便、厳原と比田勝とを往復する九州郵船の汽船(客船)が三根にも寄港した。近隣の村への中継地として三根がもっとも賑わった時期でもあった。 |
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