良馬の産地
朝鮮海峡に突き出した唐洲半島の北面にあるこの村は、1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』に登場し、すでに戸数20戸の集落をなしていた。発生当初は耕地となる平地は狭かったはずで、地先と朝鮮海峡からの収穫を生活の糧にしていたと想像される。
半島の先端部にある池田は、中世に沼(池)を開拓して田をつくり池田をそのまま地名とした。池の原は御用牧(藩営牧場)のあったところで、良馬の産地。宇治川の先陣争いで有名な名馬「池月」誕生の地とされる伝説があるが。対州馬は小型馬。いくら力が強く従順でも、それはないだろうと茶々を入れたくなる。
往時を偲ばせる鯨組の墓
江戸時代は捕鯨基地となり、1687年(貞享4年)には小田善左衛門が大規模な納屋を沖の寺島に作った。江戸後期になると欧米列強の大規模捕鯨の影響で日本近海を回遊する鯨が激減。明治17年の最後の鯨漁で、鯨組は解散した。(鯨漁のことは「伊奈」のページで)
いま鯨組の名残をとどめるものは、暗い林の中に乱立する鯨組の墓のみ。その多くは鯨にとどめを差すべく巨体にへばりつき、鯨ととも海中30mまで潜ってゆく、命知らずの羽差たちの墓なのだろう。廻と唐洲の間のあるが、地元でも若い人たちは知らないようだ。
捕鯨の流れをくむ盆踊り
その勇壮さにおいて鯨組は廻の人々に影響を与えたようで、300年の伝統を誇る盆踊りにもその名残があるという。全国盆踊り大会で1位に輝いたこともあり、若い踊り手が少なくなった現在も、保存会の手で守られ、毎年8月12日に披露される。盆踊りの保存をはじめ、地区としてのまとまりがよいのも廻の特徴であるらしい。
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