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【地名の由来】浦の入口近くにあり、浦に入る際に「入り曲がる」ところから、この名になったと言われている。 |
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漁師の中の漁師「鐘ヶ崎海士」、 定住し「曲海士」となる。 |
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鐘ヶ崎漁民、対馬へ 鎌倉時代に筑前鐘ヶ崎から対馬に来た漁民が、江戸中期にこの地に定住したのが、曲海士の起こり。一説(旧記留書)によると、1442年(嘉吉2年)の少弐氏の九州からの敗走時に、それを助けことから、特権的漁業権を得たとされている。また、別説には、鎌倉時代宗氏入島を助けたからとも、1402年(応永9年)の宗賀茂の乱を鎮めるために宗貞茂に従ったからとも言われている。 対馬八海(周辺全域)の網漁・イルカ漁を宗氏から認めら、東海岸の鴨居瀬紫瀬戸と鶏知の高浜を拠点とし、一年のほとんどを対馬で、海の上で過ごした。 対馬で生きるために定住を選択 1683年(天和3年)、千尋藻チロモで海士が藩の鉄砲方ともめ、殺害してしまったことから、その咎めとして海士はイルカと鮪の立切網の権利を失い、多分そのことと、漁法の変化により大型網を置く納屋が必要になったこと、さらに鯨漁に参加し冬も対馬で働くこと等もあり、元禄年間に曲に定住するようになったと言われている。これは、「曲海士」という呼称が初めて文書に登場するのが1722年という事実とも符合する。 海士が曲を選んだ理由は、目の前の阿須湾が藩主に献上する魚を獲る御菜浦であること、その役は海士が賜っており、藩主の住む府中(現厳原)に近いことなどが考えられる。さまざまな権益は失ったが、権益代わりに課せられた海産物の上納義務は継続されていた。 男は鯨組の刃刺か、差人か 1687年(貞享4年)にはじまった対馬での鯨漁では、潜る技術において優れている海士たちは刃刺ハザシとして重用され、鯨たちと渡り合った。1791年(寛政3年)には、曲の海士たちは藩の保護のもと、伊奈の茂江浦へ鯨組を組織して進出するが、長続きはしなかった。 また、男子は差人サシビトとして藩命によって府中に呼び出され、府士の家に下男同様に仕えなければならなかった。鯨組の刃刺と差人によって男は村を留守にすることが多く、海に潜って鮑を採る役は女に移った。 |
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