江戸時代に広形銅矛出土の記録あり
久田浦には4つの部落がある。久田と堀田と白子と、そして増田。増田は現在の行政区では厳原西里になっているが、地理的には久田の一部といえ、実際にかつては久田村だった。堀田だけが海から離れており、現在はグランドのある一帯だ。
江戸時代中期の1735年(享保20年)に、堀田の奥から広形銅矛が出土したという記録がある。この銅矛を見て当時の人は“昔の郷村の界標”と想像した。地中から出てくる例が多く、さらにその形状からして、かつて地表に立っていたものと理解したのではないだろうか。また、増田からも同様の矛が発見されており、対馬の約半数の村と同様、弥生時代後半にはこの辺りに集落があったことが分かる。
造船と製塩の中世
朝鮮の書『海東諸国紀』は15世紀中期に、久田浦には30余戸の家があったと伝え、その次の行に「造船五浦10余戸」と続けている。これを「造船」は久田浦を説明するもので、誤記によって隣りの五浦(尾浦)の頭についてしまったと解する郷土史家もいる。当時北隣りの村(現厳原)は100戸程度の村ではあったが、677年から国府として、朝廷の対馬統治の拠点であり、本土から船大工を呼び寄せることも可能だったことを思えば、久田で造船が営まれていてもそれなりに納得はできる。
また、1471年に書かれた古文書に「くたのかま」という表記がある。これは製塩のために海水を煮る竈のことで、中世の久田では製塩業が営まれていたことがわかる。
「お船江」
久田浦の最奥部に1663年(寛文3年)に造られた「お船江」は藩船の繋留施設、今風にいうならドック。厳原の市街地周辺でもっとも人気のある観光名所のひとつだ。ここで公用船は整備され、待機した。城から3.5kmも離れた場所に設けられたのも、ここに造船の設備があり船大工がいたからではないかともいわれている。
対馬で最初の窯、久田窯
江戸時代中頃まで、対馬藩は釜山に置かれた倭館に窯を設け、茶器を製作し、大名たちからの注文に応えた。その流れをくみ 断続的ではあるが対馬でも窯が経営されたが、その最初の窯が久田に設けられた。(あくまでも記録に残っている範囲で・・・)
久田窯が記録として歴史に登場するのは、実は朝鮮焼偽物事件だった。明暦(1655年〜1658年)以前に久田ではじまり、「朝鮮焼物」と見まごうほどの焼物を作っていた久田窯だったが、1657年(明暦3年)に朝鮮焼物の偽物が事件となり、それがきっかけで翌年に閉窯。対馬藩は「御用品」である「朝鮮焼」というブランドを守るために、まず久田焼には茶碗の底に「久田」と刻印する命じたが、その後一時営業停止となり、それからの記録はない。
1681年(延宝9年)に再び開窯されたたが、ほぼ同じ場所(増田)で作陶が行われていたと考えられている。どのような作風であったか、いつまで続いたかは記録にないが、茶道具に関しては「朝鮮焼」に似たものを作ることは禁止されていた。
増田窯は伊万里風
1714年(正徳4年)に、大庭七郎右衛門、飯束市右衛門が久田村増田に開窯。これは記録の上で場所がある程度特定でき、「増田窯」とも呼ばれている。こちらは「朝鮮」ではなく、伊万里から職人を呼び「伊万里」に似たものを作らせた。島内の需要を満たすために焼かれ、村々の事情を考えて椎茸やいりこなどの現物との交換というユニークな商売を打ち出したが、約4年後に閉窯したと考えられている。
厳原のベッドタウンとして
1907年(明治17年)の記録によれば、久田は農業者18戸、漁業兼業者43戸、商工業者26戸となっている。当時これほど商工業者の多い村は他にないという。すでに島内随一の消費地である厳原への商品供給地だったようだ。それは戦後になっても変わらない。
昭和51年4月、企業誘致第一号・紳士服のエフワンの縫製工場「対馬エフワン」が操業開始した。(後に「対馬アパレル株式会社」となる。)しかし、その後はこれに続く企業があらわれず、久田は商品供給地というよりは、厳原のベッドタウン化し、新たな消費地としての道をたどった。
新しい住宅の多い久田だが、港に近い旧久田地区は石垣の路地も多く、郷愁をそそるものがある。お船江観光のついでに散策するのも悪くない。
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