「大調」か「くね」か、旧名論争
対馬の最高峰である矢立山(648.5m)の西側にあり、厳原からは直線距離で10キロ足らずだが、車で1時間近くかかる。途中の山道は舗装はされているがカーブが多いからだ。
久根田舎は久根川中流、海岸線から1.5kmほど内陸に発展したが、これも川に沿って広がる耕作地ゆえだろうか。河口付近にある村、久根浜と対をなしている。
江戸時代に編さんされた『対馬紀事』には、久根の古名を「大調(おおつき)」とし、それを受けて小学校の名称も「大調」としているが、対馬郷土史の第一人者永留久恵氏から、917年(延喜17年)に碁子浜(くね浜)に鯨が寄りあがったという記録をもとに、古代から「久根」であったことが提起された。そうすると「大調小学校」はどうなるのだろうか。
「参考地」で一件落着した後陵墓騒動
この村でもっとも有名なのが安徳天皇御陵墓参考地ではないだろうか。源平の戦で壇ノ浦に消えたとされる安徳天皇は各地にさまざまな伝説を残した。鹿児島の硫黄島には安徳帝の末裔と言われる「天皇さん」が代々島民から敬愛されてきた。
久根田舎には御所と呼ばれる場所がある。安徳天皇のものと言われる墓もある。1964年に刊行された『新対馬島誌』では安徳天皇伝説に、実に10ページもの紙数が費やされている。そこには明治初期に展開された陵墓確認運動が詳しく記載されており、それが対馬の歴史においていかにエポックメイキングな出来事であったかを物語っている。結局は運動の当事者は不本意だったようだが、あくまでも「参考地」として一件落着することになる。
暮らしに根ざした石屋根の小屋
石屋根といえば椎根の村だけが有名だが、かつて対馬では多くの村に石屋根の小屋があった。瓦の普及によって、ほとんどの村で石を使うことは少なくなったが、ここ久根田舎は石屋根が多く残されている。観光名所としては椎根が有名で、石屋根も美しく保存されているような印象だが、島の生活感が感じられるのは久根田舎だと思う。観光名所としてではなく当たり前のように道路わきにあり、小屋前の庭では子供たちが遊んだりしている。
椎根に比べると厳原からは少し時間がかかり、名所として整備はされていないが、生活とともにある久根田舎の石屋根も一見の価値があるように思う。
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