対馬で一番古い時代の遺物
1973年(昭和48年)に久原小学校の運動場南東部で表土採集された土器の一部が、九州から多く出土する貝殻文土器と同様のものと分かり、対馬でもっとも古い、縄文早期の土器片ということになった。表土採集で出てきたが摩滅が少ないので流れてきたものではなく、この周辺に7000年前の人の営みがあったことは確かなようだ。遺跡としての案内板はないが、向サエ遺跡と呼ばれている。
仁田湾北岸の越高遺跡が縄文早期末、志多留貝塚が縄文後期と、仁田湾沿岸は対馬でもっとも縄文の遺跡が集中している。原対馬人というものがあるとすれば、そのルーツは仁田湾沿岸ということになりそうだ。
発掘調査が待たれる茂の脇遺跡
案内板のある茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさすらしいが、縄文前期から古墳時代に至る複合遺跡で、本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期の土器、石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが学会の常識であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器が見つかった。つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということになってしまう。
今なら産業スパイ、「孝行芋」の原田三郎右衛門
対馬では陶山訥庵とともに有名な江戸時代の偉人が、孝行芋の原田三郎右衛門ではないだろうか。
耕す平地が少なく、さらに稲作に適した土地が少ない対馬。かろうじて朝鮮半島との交易で得る穀類によってその不足分を補っていた。しかし、江戸時代に入ると藩は朝鮮半島との自由な往来を制限。米麦の輸入は滞り、いよいよ対馬は慢性的な食糧不足に陥った。
その状況を打ち破るべく、藩の要職にあった陶山訥庵はサツマイモの栽培を藩に提案しながら、独自に久原出身の原田三郎右衛門と、薩摩より種芋とその栽培法を移入ことを画策したらしい。義に感じた三郎右衛門は命がけで単身薩摩に潜入した。
1715年(正徳4年)に藩もサツマイモの種芋1,300個を手に入れ、全島に配分し栽培させたがことごとく失敗。翌正徳5年、薩摩から種芋を持ち帰った原田三郎右衛門が久原で栽培に成功すると、藩は彼を技術指導者として村々を回らせ、普及に努めた。
三郎右衛門がいなければ、対馬の食糧不足は深刻なものになっていただろう。対馬ではサツマイモのことを「孝行芋」というが、農民に孝行する芋という意味で、陶山訥庵が名づけた。藩は三郎右衛門の功労に対し、全島のサツマイモをつくる家から「孝行芋銀」と称して一定額を徴収し、三郎右衛門へ渡した。
天然の良港として
『海東諸国紀』には20余戸と記されており、湾を共有する隣りの鹿見に比べて10戸ほど少ないが、朝鮮海峡からの北西の風がまっすぐに入る鹿見の港に比べ、二つの浦を区切る経ヶ崎が風除け、波除けとなり、久原は良港として知られた。
明治時代初期の大区制の時代には、峰から鹿見までを統括する区庁が置かれたこともある。
鹿見に比べ浦が小さく、後背地も少ないので村の規模はそれなりに限定されるが、大正時代には入漁者が住みつき人口も増加。半農半漁の村として発展した。
右が久原、左が鹿見。間の半島が経ヶ崎。
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