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【地名の由来】かつてこの辺りには鉱山があり、地名を金田と書き「かむだ」「こむだ」と呼んだ。それが訛って「こもだ」となり小茂田の字が当てられた。 |
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元寇主戦場となったのは、 西海岸随一の砂浜だったからか。 |
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対馬といえば、 対馬という名が日本史に登場する機会がもっとも多いのが、鎌倉時代の元寇においてではないだろうか。特に最初の文永の役ではその被害が甚大で、守護代・宗助国らの壮絶な戦いぶりがあっただけに、その侵略は文字になる機会も多い。対馬という名が世界史に登場するのは日露戦争の日本海海戦の方が圧倒的に多く、戦いの名も対馬沖海戦というらしいのだが、日本史ではやはり元寇なのだ。 天然の良港、佐須浦 元寇直後の日本側の記録では、小茂田浜ではなく佐須浦となっている。江戸時代の干拓で埋め立てられてしまったが、かつて佐須浦は大きな入江で、西海岸の重要な港だった。約400mもある砂洲が朝鮮海峡の荒波を防ぎ、入江内は遠浅ではあったが佐須川の河口付近は天然の良港だったに違いない。佐須の名もやはり砂洲からなのだろう。しかし、おそらくそれが災いしたのではないだろうか。 壮絶! ! 80余騎 対 1000 900艘の船団で攻めてきた蒙古軍は高麗軍を従えていたので対馬の地理にも明るかったに違いない。荒磯の多い西海岸では、大部隊が上陸するのにどこがもっとも適しているかも、十分にわかっていた。佐須浦をおいて他にはないのだ。 1274年(文永11年)10月5日、知らせを聞いた宗助国は68歳の老体で馬を駆り、主従80余騎で佐須浦に急行。翌6日早朝に戦いは始まり、約1000人の蒙古兵を相手に奮戦するが午前9時頃には終わったという。小茂田浜には元寇古戦場として石碑や小茂田浜神社が設けられているが、実際の戦いの場はもっと奥の金田原か、下原あたりと言われている。助国の首塚、胴塚も下原よりさらに奥にある。 |
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