歴史は弥生後期からはじまる
対馬の最北部で朝鮮半島を向いて開いた大きな入江。それが大浦湾だ。その最奥部は二股に分かれ、東の村を大浦、西を河内と呼ぶ。
河内村の海に突き出た岬には、経隈(きょうのくま)遺跡と呼ばれる弥生時代後期の古墳があり、当時この付近に豪族が住んでいたことがわかる。
この村は江戸時代初期まで、中ノ河内と左河内に分かれていた。中ノ河内は隣の大浦の枝村で、室町時代初期から郷士である大浦氏の分家が住んだ。その大浦氏は対馬の旧支配者ともいえる阿比留氏の後裔だが、鎌倉中期に新たな支配者となった宗家に厚遇され、一時期宗姓を名乗ったこともある。
侵略戦争以前
1460年に当時の大浦領主が朝鮮の漂流民を救助したことが切っ掛けで、朝鮮国の受図書人となって通交権を獲得した。宗氏の家臣としては異例で、宗家と朝鮮との仲介役を果たすこともあった。
1510年に朝鮮居住の日本人(多くは対馬人)が起こした三浦の乱で、一時断絶した朝鮮通交だが、その後の努力で交易は徐々に回復した。日本の茶道の流行とともに盛んになった陶磁器の輸入など、朝鮮人参だけでなく、文化の輸入という、日朝貿易が新しい段階に入った時だった。朝鮮との交易で栄えた村が、朝鮮侵略の兵站基地になってしまった。
兵に取られ、村は荒らされ
「壬辰倭乱」と韓国で呼ばれ、日本で「文禄・慶長の役」と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮侵略は、対馬に、特に北部の豊崎郡に多大な負担を強いた。河内の人々は当時親村の大浦とともに大浦党として60人で朝鮮の陣に参加。対馬藩としては5000名割当のところ2700名が組織された。不足の2300名は、農民などから徴集されたという。
河内には軍目付・毛利高政が駐屯し、兵站用の倉庫も建てられた。荒ぶる兵によって村は混乱状態となり、それを抑えるために、毛利高政は禁令を出した
「竹や木を切ってはならない。収穫した魚を押し買いしてはならない。無理矢理女を捕らえてはならない。馬を借りてはならない。押し売り・押し買いをしてはならない。犬・鶏・猫を取ってはならない。大工を取ってはならない、道具を取ってはならない。」具体的に禁止されたこれらの全ては、おそらく実際にあった非法行為なのだろう。
兵(つわもの)どもの遺跡
毛利高政の陣屋跡は特定されていないが、彼が築いた結石山の砦はその石垣が残っているという。結石山(ゆいしやま)は河内の北にあり、古の頃より“結石山の桐”として知られ、万葉集にここの桐でつくった琴を詠ったといわれる歌もある、という由緒ある山だ。
また、加藤清正がつくらせたといわれる砦の跡が「肥後殿の城」と呼ばれ、最近そこを整備して韓国を眺望する展望台をつくるという計画が進んでいるという。対馬北部では棹崎を含めると4番目の韓国が見える展望台になる。
そして、その後
朝鮮侵略から約110年後の1703年(元禄16年)の郷村帳では、給人つまり武士4戸に対して、公役人つまり農民2戸という異常な状況が読みとれる。その他が16戸もあるが、内容は隠居や被官(給人の家来)など。いかに農民が少なかったかがわかる。その深刻な状況が朝鮮の役に由来するものか、あるいは大改革となった検地に由来するものかどうかは資料にないが、1731年(享保16年)には農民が10戸に増えている。給人たちは自分たちに隷属していた人々を独立させ、生産力の向上を図ったのだった。
時代はくだって1920年(大正9年)、河内に近代捕鯨の基地が建設され、終戦後も数回は賑わったという。鯨の肋骨をシンボルにした門も今はなく、四角いセメントの水槽だけが往時をしのばせる。
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