村の名を変えるほどの力とは
弥生時代前期の遺跡から石剣や甕棺が発見され、古くからの村であったことがうかがえる。15世紀後半の韓国の書『海東諸国紀』には「時古里(しこり)」の名で20余戸とある。その約100年後の天正の頃には16戸だったと資料にあるが、その時点での村名は明らかでない。1700年の郷村帳には「泉」として登場し33戸となっている。
泉は、大阪の泉佐野の漁師の最初の拠点といわれている。「泉」という地名が「泉州」からきているのは容易に想像できるが、旅人漁師の漁の拠点というくらいの理由で村の名が変るとも思えない。
秀吉からの恩賞の一部か
泉佐野の漁師たちはブリやイワシを求めて、室町時代の中頃から対馬近海に来ていたと言われている。また、大阪近辺の漁民たちは豊臣秀吉によって戦さにかりだされ、水夫として活躍していた。泉佐野の漁師が朝鮮侵略の際の大いに重宝されたのは容易に想像できる。常は日々の食料の調達に働き、ある時は釜山と対馬、九州を行き来する往復御用船として活躍したに違いない。
その功が秀吉に認められ、その恩賞として年に銀300枚の運上金だけで、対馬の62の浦(ほぼ全浦)での地引網(イワシ漁)の漁業権を保証されることになった。そして、あくまでも想像だが、おそらく「泉」への地名変更もその恩賞とセットか、村のさらなる繁栄を願っての島主あるいは地元からの申し出だったのではないだろうか。彼らの地引網は佐野網と呼ばれ、約210年後の1810年(文化7年)の時点でも、62浦のうち37浦の権利が存続していた。しかし、その中に泉の名はなく、ほとんどが島中央部の東西両岸や浅海湾の浦だった。
漁場の移動
佐野からはイワシを獲る網船だけでなく、延縄でブリ漁を行う縄船が対馬に入漁していた。沖合いで漁をする縄船に関しては、江戸時代初期から密貿易を警戒して乗り入れ禁止地区を設けられ、その後に佐野の縄船は泉より15kmほど南の琴(きん)浦を北限にした、南北約20kmの海域に漁場が限定されてしまった。
地引網、延縄漁ともに、その漁場の移動により、泉は佐野漁師の拠点としての役割を失ったが、その地名と、佐野が本籍と思われる数軒の苗字(「辻」「和田」など)だけが、その名残をとどめているという。
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