稲の伝来地
伊奈浦は上島の西海岸のほぼ中央に位置する。海から訪れると、まず高さ約50メートルの大岩壁に感嘆し、そのまま視線を左へ下ろすと伊奈村の家屋や小屋を認めることになる。
この村はイネの伝来地といわれるように弥生時代以前からあり、中世の頃は伊奈郡の中心。1274年の文永の役では、伊奈浜で壮絶な戦いがあったという。記録によると、戦死した飯束五郎安民らと蒙古戦死者を軍大明神に祀ったとある。訪れると、名に反して小さな祠がある。
2000年以上前からか
1471年に朝鮮で編纂された『海東諸国紀』には、伊奈は二所合わせて100戸と書かれている。もう一所は隣の志多留だろうか。伊奈には対馬が宗家支配になってから郡の役所である在庁がおかれた。元禄の頃からは対馬八郷のひとつ伊奈郷の主邑となり、郷内16カ村の筆頭として郷をまとめた。
伊奈久比神社には白鶴が稲穂を落として稲作が起こったという「穂落し神」の伝説があり、稲穂を落としたとされる「穂流川」もある。実際に種籾をまいたのは、水が豊かで水稲に最適な志多留となっているが、稲が伝わったのはあくまでも伊奈であるらしい。おそらく弥生時代に稲は上陸。郷土史家によると「伊奈久比」も「稲喰い」に通じるという。しかし、中世から近世にかけては「伊奈久比神社」の名の記録はなく、伊奈の神社は熊野権現のみとされていた。現在の志多留能理刀神社だ。
女がモリ打つイルカ漁
伊奈のイルカ漁は女連(うなつら)と志多留との3村共同で行われた。伊奈湾口の南に位置する女連は北上するイルカの群れを発見すると狼煙で他の2村に知らせる。三つの村は競って船を出し、イルカを湾内へと追い立て、建切網を入れてイルカの退路を断ち、さらに湾奥へ追い留網を入れる。まず、晴着にたすき掛けの女たちが、イルカを突く。一番モリから三番モリまでは女たちに権利があり、男はそれを待ってから突く。女が突くことに何らかの儀式的な要素が入っているようだが、理由は解明されていない。
茂江の鯨組盛衰
イルカに比べ鯨はその巨大さゆえに、漁も命懸けだった。鯨漁の技術をもつ一団は鯨組と呼ばれ、その多くが島外の漁師で、藩の政策により地元民との交流は断たれていた。伊奈の鯨組は大岸壁の右側に位置する茂江浦を本拠地とし、鯨納屋が置かれた。ここの鯨組は元禄以前に壱岐勝本から突取りに来ていたことにはじまり、1791年(寛政3年)には藩が曲海士を使い鯨納屋を経営。1832年(天保3年)には後に鯨亀谷と称された亀谷卯右衛門が鯨組を組織し、茂江に春納屋を置き、春に対馬の西を北上する鯨を狙った。その後しばらくは捕獲頭数も安定し亀谷は鯨長者となったが、その頃すでに欧米の近代捕鯨が始まっており、次第にその乱獲によって日本近海を回遊する鯨の数が減少し、伊奈の鯨漁は明治10年代に終わりを告げた。下の写真が茂江浦。石垣の一部が残っている。
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