それは日本海海戦の44年前のことだった
1861年(文久元年)という年は、ペリー来航から8年、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変の翌年に当たる。その年の出来事として、ある出版社の日本史年表には「ロシア艦が対馬占拠」と書かれてある。実際は「対馬の一部を占拠」しただけだが、これが対馬藩はもとより、幕府をも揺さぶる大事件になっていく。
1861年(文久元年)2月3日、ロシア艦ポサドニック号は浅海湾に侵入した。尾崎浦に錨を下ろし、船の修理を願い出たが、思うように事が運ばないとみると大砲で威嚇したという。そして3月3日には昼ヶ浦の芋埼に上陸し、小屋を立て、井戸を掘り、居住体勢をとりはじめた。
ロシアの強硬姿勢に、藩は移封を願った
ポサドニック号の艦長はさまざまな要求を対馬藩に提示したが、藩はなかなか応じない。その間にロシア人たちは拉致や殺傷沙汰など、次々と事件を引き起こした。
昼ヶ浦には対策本部の出先機関がおかれ、そこがロシア艦の監視と接触の役を担った。いわば最前線であり、昼ヶ浦の住民にすれば夜もおちおち眠ってられない。また警護のための臨時の公役もあり、畑を耕すこともできず、村は急速に困窮していった。
ロシアの最終的な目的は芋崎周辺の永代租借だった。そのための理屈として、イギリスが対馬を狙っているので、対馬を守るために自分たちは来たというものだった。どうも藩はこれを信じたらしい。幕府が対馬を直轄地としてロシアに租借を認め、藩は河内(大阪)に移封されることを望んだ。
夷敵は夷敵をもって制す
3ヵ月後の5月には幕府から外国奉行が来島し、交渉にあったたが事態は進展せず、6月になると藩は幕府に移封願を出した。
対馬藩はロシアへの返事を粘り強く引き延ばし続けることしかできなかったが、最終的にはそれが功を奏した。ロシア艦けん制のためにつかわされた英国艦2隻の登場で、ポサドニック号は8月15日に錨を上げ、撤退した。
イギリスが対馬占拠を狙っていたのは事実らしい。もしロシア艦が居座ったなら、同じようにイギリスも対馬を占拠するという報告を、イギリス公使は本国に送っていた。
芋崎には、かつてロシア兵たちがつくった井戸があるということだが、現在は草におおい隠されたのか、打ち寄せる海のゴミに隠れているのか、探すことは困難だ。
海の好立地は、陸の辺境となった
ロシアが昼ヶ浦周辺の租借を求めたのも、この地が浅海湾のほぼ中心で、朝鮮海峡に出るにも対馬海峡に出るにも便利な、軍事的な要となるロケーションだから。
朝鮮の書『海東諸国紀』は、15世紀後半に40余戸の家があったと伝えているが、おそらく土地さえあれば、もっと増えていただろう。それが1700年(元禄13年)の郷村帳では戸数11戸となっている。この大幅な減少は、やはり江戸時代になって藩がおこなった、朝鮮への自由な往来の禁止と農本政策によるものだろう。明治までほとんど同様の状態だった。
5キロほど南東にある竹敷村は明治時代から大正にかけて海軍特需で賑わったが、昼ヶ浦はまったく恩恵に浴すことはなかった。浅海湾に突き出た半島の先端という海の好立地は、陸の辺境となり、対馬最後の無点灯集落となった。待望の電灯がついたのは東京オリンピックの前年、1963年(昭和38年)10月だった。
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