半島と交流のあった豪族の拠点
舟志湾の奥の奥にある浜久須には古代に豪族がいたらしいことが、豊富な副葬品を出土した朝日山古墳や霹靂(へきれき)神社の存在からうかがわれる。入江の最奥部にある町営グランド付近にも石棺が眠っているといわれている。
浜久須から南へ3〜400m行くと、東に突き出た小さな半島があり、朝日山と呼ばれている。その岬の先端部が円墳のように丸く盛り上がり、山上に石棺群がある。出土品には新羅系の陶質土器が多く、鉄製の道具やガラス玉などがある。副葬品の状況から5世紀後半の古墳とみられている。
熊野権現から霹靂へ由緒変え
霹靂神社はその朝日山古墳をご神体のようにして祭られ、本殿は山の中腹に、拝殿はその下の海辺にある。「霹靂」とは、急に聞こえてくる雷のこと。ちなみに「青天の霹靂」とは、晴れているのに突然雷が聞こえてくる程の意外な驚き、という意味になる。霹靂を「いかづち」と読ませ、霹靂(いかづち)神社としたのは天明の頃(1780年代)で、それまでは熊野三所権現、あるいは熊野権現と言っていたらしい。神社の由緒は記録のない場合が多く、後世にそれを決定するのは難しい。
この地を朝日山と呼んだのは、「朝日さし 夕日かがやくこの丘に 黄金千ばい朱万ばい」と詠われるような朝日夕日の伝説があったからと言われているが、この伝説の詳細にはまだ出会っていない。
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