対馬考古学の出発点
佐護川の流域は対馬で最も豊かな稲作地帯として知られ、佐護平野とも呼ばれる。その豊かさをバックにこの地の豪族は勢力を伸ばしたのだろうか、弥生時代に大いに繁栄したことが、12という遺跡数や遺物の多さから推測できる。
恵古にもっとも近い佐護白嶽遺跡は、この村の北東の川向うにある岩山(白嶽)の西にある。弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡で、考古学界でも有名な遺跡だ。石棺群から弥生式土器、陶質土器、銅剣、鉄剣、腕輪などが明治後期に発掘されたが、その後遺物は散逸し、現在では資料が残るのみ。豊富な遺物はどこかの収集家の蔵の中だろうか。
対馬六観音の北の聖地
佐護には恵古の他に、深山、仁田ノ内、井口、友谷、湊という村があり、その六ヵ村の中心地として古より栄えたのが恵古だった。それは佐護では唯一ここだけに観音堂があることからも証明される。しかもここの観音堂は対馬六観音のひとつ。最北の六観音だ。
対馬の観音信仰は対馬独特の宗教である天道信仰と結びついており、かつてここの観音堂は天諸羽(あめのもろは)神社の境内にあった。それが明治初年の神仏分離で引き離され、現在の白嶽南麓に落ち着いたという。本尊の聖観音立像は室町時代の作らしい。
観音信仰と歌上手
恵古は、宮本常一著『忘れられた日本人』に登場する。1950年(昭和25年)にこの村を訪れた宮本はそこで歌の上手な老翁と出会ったことが切っ掛けで、中世末期から明治の終わり頃まで対馬で盛んだった六観音参りについて知ることになる。
六観音参りは、男も女も群れになって巡拝したそうだ。彼らは民家に泊まり、そこに集まった村の青年たちと夜更けまで歌い合い、踊りあった。歌のかけあいは歌合戦になり、節のよさや文句のうまさで勝負したそうだ。興がのるといろいろなものを賭けて争い、男と女の対決では身体を賭けることも少なくなかったという。だから明治に育った対馬の人たちは歌上手が多く、芸達者だったという。
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