網代村誕生のなぞ
網代という村がいつの頃からこの地にあったのか、はっきりは分かっていない。朝鮮の書『海東諸国紀』の地図で網代の位置が比田勝と舟志(しゅうし)の間にあるので、おそらく1471年には現在の地にあったであろうとされている。
また、1455年に朝鮮の漂流者を助けて朝鮮から官職を受けた網代村の住人が、1476年の朝鮮使節が西泊に滞在中に、酒肴をもってねぎらいにきた、という朝鮮側の記録がある。網代村は西泊湾の現在の地にあったということになる。
特にこの村の発生に関心が寄せられるのは、この村がかつて鰐浦の沖にある三ッ島を村領とし、江戸時代初期にはその地の耕作を鰐浦の百姓に任せていたという文書があるからだ。つまり、かつて鰐浦の東に住んでいた百姓が、いつ現在の地に移住したか、またその理由は何なのか。もちろん移住前に現在の地に網代村が存在していたとも考えられる。
中世の人たちはこの漣痕(れんこん)をどのように受け止めただろうか。
困窮を乗り越えて
『海東諸国紀』には戸数20余と記載されているが、その約100年後の天正年代の記録では、家数8、藻小屋25となっている。(藻小屋とは畑の肥料となる藻を入れておく小屋。)
さらにその約100年後の1686年(貞享3年)には百姓は2軒だけになった。おそらく1660年から1663年に行われた寛文検地による改革によって百姓が続けられず、逃亡したか、あるいは奴婢にされてしまったのだろう。2軒では土地が耕しきれず、村に課せられた年貢も収められない。そこで藩は舟志村から百姓4軒を移住させた。
1731年(享保16年)には13軒に増えたが、1768年(明和5年)には7軒。その後、村はさらに困窮し、1789年(寛政元年)の記録では村船を持つことができなかったほどだったという。
しかし、1838年(天保9年)には家数11軒で、船も11艘。牛は10頭、馬3頭と、窮状は回復しており、明治になると、島根県、山口県、広島県、福岡県などから多くの漁業移住者があり、戸数、人口とも大幅に増えることになる。1924年(大正13年)の調査では戸数30戸、人口205人。
対馬の近代捕鯨始まりの地
1839年(天保10年)に網代から南東へ1.5kmほど離れた尾浦に鯨納屋が置かれた。その年の10月に鯨積船が尾浦から直接出帆することが藩から認められたという記録が残っている。浦底の海岸線からさらに250m奥に石組の古井戸が残されているという。
1908年(明治41年)、網代村民の誘致活動により近代捕鯨の基地が置かれた。鯨から鯨油や肥料をつくる網代肥料製造会社も設立されたが、捕獲頭数が十分ではなく、あまり実績はあがらなかったという。1920年(大正9年)に基地が河内に移るまで続いた。
現在の網代は漁業中心の村。1980年(昭和55年)の国勢調査では、戸数49戸、人口192人だ。
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