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【地名の由来】浅藻の「藻」は「浦」の意で、浅い浦ということらしい。港を開く際に、大岩を沖に捨てたということからもうなずける。 |
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梶田富五郎翁の名とともに知られた 定住漁民の村。 |
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宮本常一に描かれた村 1950年(昭和25年)7月の、一人の民俗学者とある老漁師の出会いが、この村を有名にした。民俗学者の名は宮本常一。そして老人は、村の名以上に有名になった梶田富五郎翁。1960年(昭和35年)に上梓され、今も売れ続けている超ロングセラー『忘れられた日本人』(岩波文庫)に二人は登場し、明治という時代の日本人の生きざま、そして浅藻という特殊な村の成り立ちを、一個人の人生を通して鮮やかに描いている。 長崎県が企画した書籍『長崎県文化百選/壱岐・対馬編』にも、対馬の名所名物とともに、対馬聖人といわれる陶山訥庵(1)やあの雨森芳洲(2)とともに、梶田富五郎翁がページタイトルとして大きく扱われ、浅藻の歴史が紹介されている。 一度消えた村と天道信仰 浅藻は弥生時代には村があったと推測されており、15世紀の朝鮮の書『海東諸国紀』には戸数15と記載されている。しかし富五郎翁をはじめ久賀の漁師が住み始めた明治初期、そこは無人の浦だった。 対馬には土着信仰として天道信仰(3)があるが、浅藻川の2キロ上流に「八丁角」という天道の聖域があり、そのかなたに聖地である竜良山がそびえる。天道信仰では、侵してはならない聖域を天道シゲといい、そこに住むことは禁忌とされた。浅藻も江戸時代に天道シゲとなり、村人は立ち退いた。それは江戸時代の中期から後期にかけてことと言われている。(下の写真は八丁角) 出稼ぎ漁から定住へ その浅藻に何ゆえ、瀬戸内海周防大島の久賀の漁師たちが住み着くことができたのか。対馬に入漁していた向洋の漁民から大漁の情報を得た久賀の漁民は、1813年(文化10年)を機に浅藻湾一帯に押し寄せ、久賀でいう「対州漁」を行った。8月に久賀を出港し、翌年4月に帰港するという、秋から冬、そして春にかけての厳しい出稼ぎ漁だった。 久賀漁民が浅藻に住み始めたのは明治9年からだが、その切っ掛けは前年の12月に風に煽られ転覆した豆酘の舟と漁師を助けたことだった。豆酘は浅藻の親村だったので、命の恩人たちへの礼として、久賀漁民の求めるまま浅藻(小浅藻)定住が認められた。その後、中浅藻には山口県大島の沖家室の漁民たちも移住したが、詳細は『忘れられた日本人』(岩波文庫)に登場する梶田富五郎翁に譲りたい。 |
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(1)陶山訥庵:
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