吉凶占いの原点、亀卜(きぼく)
亀の甲羅を焼いて、そのひびの方向や広がり方でさまざまな吉凶を占う「亀卜(きぼく)」は、古代中国、殷の時代には政治と深く結びついていた。その技術が対馬に到着したのがいつの頃かは明確ではないが、おそらく5、6世紀。そして、その上陸地はここ阿連の村であるらしい。ここでは主に農作物の豊凶や天候を予知する占術として発達した。この村のロケーションからして朝鮮伝来かと信じてしまいそうだが、少なくとも朝鮮半島に亀卜の歴史が見当たらないという。
対馬卜部(うらべ)の本流とされる阿連の亀卜だが、早くに亀卜の伝統は失われたという。おそらく藩の公式行事としての亀卜が、豆酘と佐護で執り行われたからではないかと思われるが、それ以前に廃れていたのかも知れない。古き対馬を伝える亀卜は、現在では年に1度、旧の1月3日に豆酘のサンゾーロー祭でしかお目にかかれない。
オヒデリとイカヅチ
阿連にしかない行事に、“オヒデリサマの元山送り”というのがある。11月9日、大人も子供も、村中こぞって、村の奥の林の中にあるオヒデリサマの祠まで、1.5kmほどの道のりを、鉦を鳴らし太鼓を打ち、法螺貝を吹き鳴らしながら行進する。
この行事は雷命神社の祭神である雷大臣(いかつおみ)が出雲へ赴いている間、村を守るために神社に入った日照神(俗称オヒデリサマ)が、帰った雷大臣と10日間過ごしたのちに神山に戻る儀式で、その時すでに日照神は懐妊しているという。
日を照らせる神であるオヒデリと、雨を降らせる神、イカヅチ。この2神が仲良くすることにより天候のバランスがとれ、秋の豊作につながる。きっとそんな願いと感謝がこめられているのではないだろうか。
ところで雷命神社の石鳥居だが、「八龍神社」と彫られている。中世から近世にかけて八龍大明神と称し、八龍殿と呼ばれていた。8匹の龍。まさしく雷のイメージだ。
豊かな半農半漁の村
1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』では100余戸と記載されている。また史料により、阿連の漁船は朝鮮沿岸への出漁が許されており、それに対する税を払っていたことが分かっている。中世の頃は農業同様に漁業も盛んな村だったようだ。
しかし、江戸時代に入ると、私貿易を恐れた藩の政策により漁業は禁止され、農業1本となってしまった。元禄時代に戸数67戸・人口284人となったが、明治までほぼその数字を維持できたのは、耕作に適した土地が阿連川沿いや付近の浦に多かったからだろう。
明治になり漁業が許されると、戸数・人口ともに増え、1924年(大正13年)には84戸・585人になった。
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