宮本常一に見つけられた島
赤島とは島の名前であるとともに、島に点在する4つの集落の総称でもある。対馬の東海岸のほぼ中央に位置するこの小さな島が、一部の人間にではあるが、全国に知られたことがあった。昭和25年に"歩く民俗学者"と言われた宮本常一(1)がこの地の老翁に取材し、彼が語ったことを物語風にアレンジして、昭和35年に発表した。『日本残酷物語第2巻』に収められた「ある老人と海」の部分がそれに当たる。いくらか脚色があると言われているが、そのベースとなる話の骨格は正しいようだ。彼が書かなければ、おそらくその苦難の日々は、歴史とはならなかっただろう。
瀬戸内海からの移住
ここは広島の向洋の漁民が移住した村だが、そのすべての始まりは19世紀初頭の文化年間に、広島の安芸藩の姫が宗家32代宗義和に嫁いだことにある。年に2回、広島対馬間を通信船が往復し、その漕ぎ手に向洋漁民が雇われた。
その漁民たちが対馬に来て、まず驚いたのが魚影の濃さだった。さっそく入漁を願い出て許可されると、毎年4月に向洋を出て約半年間、対馬周辺の漁場でイカ漁に従事した。
最初に赤島に住んだのは向洋出身の漁師夫婦だと本では語られている。その後橋本松治が住み、弟米助を呼ぶ。この橋本米助がかの物語の語り部であるとともに主人公であり、赤島の恩人として語り継がれている郷土の英雄である。
対馬じゃ土地は買えんから
「ある老人と海」で語られたのは、対馬に残る旧弊とそれによって虐げられ闘う主人公たちの物語だった。
かつて対馬藩は島民を土地に縛り付ける政策をとった。そのひとつに本戸制(2)があり、村の入会権を持つ家を「本戸」とし、それを土地とともに長男相続として、次男三男は「寄留」として共同体に関する権利を許されなかった。明治になってもそれは維持され、「本戸」と「寄留」は既得権を持つ家と持たない家を表す言葉となり、それは定住した外来の漁民たちにも適用された。
本戸の住む親村との間にかわす土地の借用証には、借用条件としてさまざまな難題が記された。何十年住んでも土地の購入が許されず、赤島の人たちは戦時中に朝鮮半島に土地を買った。
赤島住民にとって念願の赤島大橋が1979年(昭和54年)に完成した。赤島と対馬本島は自由な往来ができるようになったが、先日撮影に立ち寄った時に、傍で撮影を見ていた土地の老翁がつぶやいた。「100年住んでおっても、土地も買えん。」
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